煙の国の戦争

受動喫煙と言う言葉を知っているだろうか?

受動喫煙の健康被害が初めて提唱されたのは実は1981年のことである。

昨今、2020年という節目の年度に向けて政治の世界では様々なことが変化しようとしているが、
その一つに受動喫煙対策法案がある。

もともと受動喫煙の防止は平成15年に健康増進法の「努力義務」として設定され、かれこれ14年が経とうとしている。
しかしながら、「努力義務」の実態としては、依然として飲食店や職場等での受動喫煙を撲滅するには至っておらず、平成29年3月に厚生労働省は「努力義務」を限界として判断、法案として罰則を設けた規制案を発表している。
法案の基本的な考え方は非喫煙者の健康保護の元、特に未成年者、病人の受動喫煙防止である。
そして、そこに付随して飲食店での原則禁煙が掲げられていた。

この案件に興味を持っている方はすでにご存知かも知れないが、当初の厚労省案は自民党により腰砕けの内容となったと評価されている。
事実、当初の法案に比べると、飲食店について大きく後退する内容に成っていることは否めない。
現在も未だに議論の続く案件であるので、詳しくは各種情報媒体にて調べていただきたい。

筆者個人の考えとしては、喫煙可能店舗への未成年者の入店禁止、この部分が徹底できるのであれば、実行力として悪くない法案となると考える。

さて、この議論をめぐり、自民党の大西議員の暴言が止まらない。
程度としては、これら暴言を踏まえれば、同議員の人間性を国民が疑うには不足しないと判断できるレベルであるかと考える。

その中の一つに以下のような発言がある。

『我が家では自由に喫煙してる。 ... そして我が家でも、自由にタバコを吸い続けておりまして、子供が4人、孫が6人、一切誰も不満は言いませんし、みんな元気に頑張っております』

この発言に対しても、各地から多くの批判が殺到している訳であるが、この発言、得てして妙なもので、わりと世間の道理を外していないように思える。

そもそも、受動喫煙に反対する人々は、何故反対するのか?

それは、健康へのリスクや、臭害、煙害、喫煙者のマナーへの苦言、ともすればただ単に喫煙者を叩きたいだけという人もおそらくいるだろう。
しかし、件の大西議員の発言からも伺えるように、
”身内、あるいは友人が喫煙者であった場合、嫌煙家達はどこまでその喫煙者を糾弾する事ができるのであろうか?”

おそらく一部の嫌煙家を除き、強く糾弾することは出来ないのではないだろうか?
かくいう私も嫌煙家ではあるが大きく糾弾することは出来ないといえる。

最も、この問題は喫煙者側にも当てはまる話ではあり、
”喫煙者が身近な非喫煙者に対してどこまで無遠慮に受動喫煙を共用できるのか?”
という側面も有している。

こちらについても、一部の喫煙者を除いて無遠慮に振る舞うことが出来ない事は、ほたる族の存在により証明されているだろう。

さて、ここで私個人の話をしよう。
私はタバコを吸わない非喫煙者であり、吸った経験もない所謂未喫煙者でもある。
私は喫煙者が居たとして、それ所定の場所であれば苦言は呈さない。
しかし一方でランチ中に見知らぬ隣のサラリーマンがタバコを吸い始めたとしたらそれは戦争である。

ここで、見知らぬ隣のサラリーマンとした事は先ほどの身近な喫煙者をどこまで糾弾できるのかという問題に関わってくる。

私は、受動喫煙の許容非許容を一つのリスクバランスで判断する。
身近な人物というのは少なからず私自身に対してメリットを及ぼすもので、そのメリットが受動喫煙によるデメリットを上回っていれば、人間関係に置ける一種の投資として、人の健康被害、並びに飯がまずくなる、臭い等の不快感を享受する。
最も、受動喫煙によるデメリットの方が大きければその人物とは疎遠になるであろうし、ともすれば戦争に発展するかもしれない。

さて、次に見知らぬサラリーマンについてだが、ぶっちゃけ別な事情がない限り見知らぬサラリーマンはそこに存在しているだけでデメリットを与えるものだと考えて良い。また、デメリットを与えないサラリーマンは一定数居るにしても、メリットを与えてくれるようなサラリーマンは一部のイケメン位のものである。
そこに、喫煙というマイナスのファクターが加わるわけだ、当然戦争である。
そもそも何故私がこのサラリーマンの趣味のために健康被害や不快感を受けなければならないのか?
そう思ってしまえば、受動喫煙を黙って享受することは出来ない。

このような考えを持つ非喫煙者は嫌煙家に限らず多いのではないかと私は考える。

さて、このリスクバランスの考え方だが、ほぼ間違いなく喫煙者も行っている。
一部の喫煙者は喫煙者として嫌煙されることを嫌い、タバコを辞めると聞く。
また、無遠慮な喫煙者にしても、自らの健康リスクと喫煙により得られるメリットを鑑みて喫煙しているのではないだろうか?
もし、それすらしていないのであれば脳が破壊されてしまったと言われても文句は言えないだろう。

ここで、一つの思考実験をしてみたい。
タバコの吸口にはフィルターが吐いており、煙を濾過していることは多くの人物が知っているであろう。
この部分はある程度、煙草による喫煙者の健康被害を抑える働きもあると考えられる。

今、このフィルターの装着を禁止する運動が起きたとして、どれほどの人物が賛同して、どれほどの人物が反対するのであろうか?

当該運動の主張は以下である。
『非喫煙者の健康を脅かす喫煙者に相応の報いを、濾過フィルター反対!』

昨今の日本において、この主張を受け入れる嫌煙家も一定数いるのではないかと私は考える。
所謂、足の引っ張り合い、長期的に見れば非喫煙者に対してメリットもあるかもしれないが、基本的には喫煙者のデメリットが増しただけで何の解決にもなっていない。
仮にこの様な主張に傾倒する嫌煙家の方は、今一度自分が何のために受動喫煙、あるいは喫煙家を駆逐したいのか、今一度考えて欲しい。

また、この主張に対して強く反対する喫煙者の方、その健康に対する危機感は、今の非喫煙者が受動喫煙に対して抱えている危機案である。
今一度、他人に対して自らの喫煙行為が及ぼす被害というものを見つめ直しマナーという物を大切にして、周りの喫煙仲間に広めて欲しい。

最後に、タバコ販売に関わる事業者よ。
昨今の問題は君達の努力不足による物も大きい。
努力していなかったとしても、仮に努力をしていたとしても、早急に受動喫煙による健康へのリスクや、臭害、煙害のない商品を完成させて欲しい。

それがきっと煙の国の戦争を終結させる冴えたやり方だ
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毛むくじゃらおばけの話

『女性は感情的であり、男性は理屈的である。』

そのような主張が真しやかに囁かれ出してから久しい。

そもそも『感情』と『理屈』とは何か?

『感情』とは人に先天的に備わっており、『理屈』とは経験によって取得される後天的なものなのではないか?

冒頭の主張者の立場に立てば、これはノーである。
これでは人類は皆生まれつき女性であり、成長するに連れて男性になる事になってしまう。
少なくとも、人間は生まれつき女性ではないし、女性が男性になる例があったとしても、それは現代においては稀である。

では、『感情的な女性』と『理屈的な男性』はどのように生まれるのか?

過去に『理屈的』な説明を試みた例に沿えば、これらの差は所属するコミュニティによって分化が起こる。
すなわち、狩りや漁、勤務など、家の外に出て開いたコミュニティを形成する男性は『理屈的』となり、家事や子守など、家を中心とした閉じたコミュニティを形成する女性は『感情的』になる。

より噛み砕いた表現をすれば、『理屈』とは外敵に対処するための『体毛』であり、『感情』とは味方や同族と触れ合うための『体』であると言える。
考えるに、『理屈』と『感情』はどちらも人に先天的に備わるであり、『体』や『体毛』のように成長するのであろう。

妙なもので、このように考えると冒頭の主張、並びにその後の「人類は皆生まれつき女性である」という主張は案外、的を射た主張に思えてくる。

つまり、第二次性徴をむかえる前の人というのは、皆女性なのである。この事実は人類の歴史において少年愛が切り離せないものであることからも明らかである。

... ...

冗談はこの辺りにするとしても、第二次性徴前と言うのは外敵に晒される機会が少ないことは一般に判断できるであろうし、その期間が豊かな『感情』の形成に重要な期間であると言うことは、現代においては多くの人が受け入れられる事実であろう。

例えば、冒頭の主張、この主張に対して反感を持つ人は相当数居るかと思うが、以下の主張についてはどう考えるであろうか?

『子供は感情的であり、成人は理屈的である。』

違和感を覚える人間がゼロであるとまでは言わないが、些か受け入れやすい主張になったのではないか?

つまり、冒頭の主張というのは『女性は守られるものである』という一種前時代的な考えが具現化したものと考える。
これが現代社会において受け入れないものである事は、いわば当然の帰結であるし、先程の主張も『子供は守られるものである』との意識が無くなれば、また同様に受け入れがたいものとなるであろう。

そもそも、冒頭の様な主張は何故生まれたのであろうか?
この主張は、一方が他方を貶めるために使われるケースが散見されているように思う。
第一、『外敵に対する対処法』を持たない生物、『同族と触れ合う術』を持たない生物のどちらも、生態系において死滅するのは自明の理であり、人間はそれらを『理屈』と『感情』と言う形式で兼ね備えた生物である。

しかしながら悲しいかな、現代社会においては『感情』がその生物的役割を見失い『外敵に対する対処法』として用いられ、しかも、本来外敵にこそ向けられるべき『理屈』(あるいは現代において変異した『感情』)を同族に対して振るうケースが増えている気がする。
冒頭のような主張が生まれたのも、その流れを汲むものであろう。

もし、貴方が『感情』や『理屈』で以て、同族を攻撃しようとしている、或いはすでに攻撃してしまっているのであれば、今一度自分の姿を鏡で見て欲しい。

そこには全身が体毛にまみれた毛むくじゃらの異形が映ってはいないだろうか?

人の文章はボジョレー・ヌーボーに始まる

文章とは人の心が作る酒である。

皆さんは、学校での部活や委員会、あるいは社会人になってからの仕事でも良いが、
議事録という物を作成したことはあるだろうか?
議事録とは、その集まりにおけるやりとりを速記やテープレコーダーにより記録し、
その場で討論された事を文章として書き上げたものである。

私は、テープレコーダーからの書き起こししか経験がないが、
これを行うと、会話とは消えて失くなる言葉に過ぎ無い事がよく分かる。

端的に述べてしまえば、会話をそのまま文章として書き起こしても、まるで意味不明なのだ。

同じ言葉の繰り返し、主語の欠落など日常茶飯事、場合によっては、会話の最初と最後で主張が変わっていることもある。
私が経験した中で一番強烈なのは、名詞、動詞、助詞等の単語が羅列された発言である。

しかしながら、実際の討論の場では不思議と意思の疎通が取れている。(単語の羅列は意味不明であったが...)
これは一体どういう事なのか?

私が思うに、会話とはミックスジュースであると考える。

人々から発せられた、言葉という果実を大雑把に下処理し、混ぜ合わせて味わうのだ。

その際の下処理により、不要な言葉は捨て去られる。
皆が、与えられた果実の中から美味しい部分だけを取り出してジュースを味わうのだ。

そう、美味しい部分だけを味わうのだ。

受け取り手にとって都合のいい内容を残し、不都合なものは捨て去る、
果実の皮や、傷んだ部分、苦い部分などは捨ててしまう。
人によっては、知らない見たことのない果実や、嫌いな果実をそのまま捨ててしまう人もいるだろう。
さらには、味を整えるためと、自分で果実を持ってくる人もいる始末だ。

勘違いや、認識の違いはそうした所から生まれる。
もちろん、これは消費者が一方的に悪いわけではなく、生産者もおいしい果実を過不足なく与える努力も必要だ。

とはいえ、このような勝手な処理であったとしても、それにより、統一の取れていない言葉であっても、
意思の疎通を行えるのは確かである。

さて、話を議事録に戻そう。
会話の内容をそのまま書き起こすというのは、各自が行っていた下処理をせず、原料をそのまま並べているに等しい。
原料を一覧にまとめられて、「さて、彼らが飲んだジュースはどのような味でしょう?」と問われても、実際に飲んでみなければわかりようがないし、また、それでは意味がない。

議事録作成においては、これらの果実について、誰でも同じ味を楽しめるようなレシピの作成が求められる。

これは、議事録に限らず、文章全体に言える話でもある。
会話という即売会ではなく、文章という恒常的な市場を構築せんとする際、人々は文章の推敲を行う。

これは、じっくりと熟成させる場合もあれば、キレイに蒸留をする場合もまたある。

先ほどの議事録のような例ではこれは蒸留することこそが求められるであろう。

では、このブログはどうであろうか?

これは、熟成と考えてしまってよいであろう。
すなわち、私は私という人間の中で熟成、醸造した文章を、雑味も含めてここで皆に振る舞っているのだ。

これは、私のブログに限ったことではなく、ブログとして文章を発信している殆どの人間は、
自分の心の中でドロドロと熟成した醸造酒を振る舞っているのではないだろうか?

このような場所で、誰に強制されたわけでもない、いわば秘蔵の文章を、こっそりと皆に振る舞うのである。
それは、気心の知れた友人と自宅で酒を飲み交わしている様なものなのかもしれない。

読者は、自分のコメントを秘蔵のつまみとして持ち寄って、宴に参加しても良いし、
人心という美酒を各地で飲み比べ、気高きワインソムリエを目指してみても良いだろう。