人の文章はボジョレー・ヌーボーに始まる

文章とは人の心が作る酒である。

皆さんは、学校での部活や委員会、あるいは社会人になってからの仕事でも良いが、
議事録という物を作成したことはあるだろうか?
議事録とは、その集まりにおけるやりとりを速記やテープレコーダーにより記録し、
その場で討論された事を文章として書き上げたものである。

私は、テープレコーダーからの書き起こししか経験がないが、
これを行うと、会話とは消えて失くなる言葉に過ぎ無い事がよく分かる。

端的に述べてしまえば、会話をそのまま文章として書き起こしても、まるで意味不明なのだ。

同じ言葉の繰り返し、主語の欠落など日常茶飯事、場合によっては、会話の最初と最後で主張が変わっていることもある。
私が経験した中で一番強烈なのは、名詞、動詞、助詞等の単語が羅列された発言である。

しかしながら、実際の討論の場では不思議と意思の疎通が取れている。(単語の羅列は意味不明であったが...)
これは一体どういう事なのか?

私が思うに、会話とはミックスジュースであると考える。

人々から発せられた、言葉という果実を大雑把に下処理し、混ぜ合わせて味わうのだ。

その際の下処理により、不要な言葉は捨て去られる。
皆が、与えられた果実の中から美味しい部分だけを取り出してジュースを味わうのだ。

そう、美味しい部分だけを味わうのだ。

受け取り手にとって都合のいい内容を残し、不都合なものは捨て去る、
果実の皮や、傷んだ部分、苦い部分などは捨ててしまう。
人によっては、知らない見たことのない果実や、嫌いな果実をそのまま捨ててしまう人もいるだろう。
さらには、味を整えるためと、自分で果実を持ってくる人もいる始末だ。

勘違いや、認識の違いはそうした所から生まれる。
もちろん、これは消費者が一方的に悪いわけではなく、生産者もおいしい果実を過不足なく与える努力も必要だ。

とはいえ、このような勝手な処理であったとしても、それにより、統一の取れていない言葉であっても、
意思の疎通を行えるのは確かである。

さて、話を議事録に戻そう。
会話の内容をそのまま書き起こすというのは、各自が行っていた下処理をせず、原料をそのまま並べているに等しい。
原料を一覧にまとめられて、「さて、彼らが飲んだジュースはどのような味でしょう?」と問われても、実際に飲んでみなければわかりようがないし、また、それでは意味がない。

議事録作成においては、これらの果実について、誰でも同じ味を楽しめるようなレシピの作成が求められる。

これは、議事録に限らず、文章全体に言える話でもある。
会話という即売会ではなく、文章という恒常的な市場を構築せんとする際、人々は文章の推敲を行う。

これは、じっくりと熟成させる場合もあれば、キレイに蒸留をする場合もまたある。

先ほどの議事録のような例ではこれは蒸留することこそが求められるであろう。

では、このブログはどうであろうか?

これは、熟成と考えてしまってよいであろう。
すなわち、私は私という人間の中で熟成、醸造した文章を、雑味も含めてここで皆に振る舞っているのだ。

これは、私のブログに限ったことではなく、ブログとして文章を発信している殆どの人間は、
自分の心の中でドロドロと熟成した醸造酒を振る舞っているのではないだろうか?

このような場所で、誰に強制されたわけでもない、いわば秘蔵の文章を、こっそりと皆に振る舞うのである。
それは、気心の知れた友人と自宅で酒を飲み交わしている様なものなのかもしれない。

読者は、自分のコメントを秘蔵のつまみとして持ち寄って、宴に参加しても良いし、
人心という美酒を各地で飲み比べ、気高きワインソムリエを目指してみても良いだろう。
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